いつか裁かれる日が来るとしたら それは神にではなく、まして人でもなく たった一人 この少年がいい… ロッシュの限界 V 空が墨を落とした様にくすむ。 剥き出しの大地も、命の水を吸ったように染まる。 降り止んだ雨は、濁った水溜りを造っただけ。 見渡す限り、瓦礫と砂塵。 数ヶ月前までは、市街地だったとは到底思えない光景が、そこには広がっていた。 降り出した雨に威力を殺がれる事無く、細く伸び逝く白い煙。 まるで、弔いの儀式の様に悲壮なそれは、高く高く灰の空を抜け、白く、蒼く澄んだ処まで届くのだろう。 悲鳴と、銃声と、混乱で満たされていた其処は、もう戦場ではなく、巨大な墓標を連想させた。 貫く様な哀しみを内包して、終焉を告げる静寂は耳に痛い。 購いを求めるでもなく、懺悔を求めるでもなく。 ただ、哀しい。 其処で、2つの人影だけが生命の彩を放っている。 それが、それだけが、終焉ではなく創造の象徴だった。 再生ではなく、創造の………。 「あんたは、その名を憶えていられるのか?」 崩れ落ちた、分厚い壁の残骸に腰を下ろした青装の青年が、少し離れた場所に屈んだ男に声を掛けた。 青年の、遠く空へ向けられた横顔は、白く伸びる軌跡を追っていた。 何の感情も含まない、ただその言葉の意味だけを伝える声。 ありのままを映す静かな瞳。 絶望も、恐怖も、後悔も。 そんな感情は、温かな場所に遺してきた。 その静か過ぎる問いに、腰を折り、膝を付き、何かを拾っていた男は顔を上げた。 何時もなら、常にどちらかの手に嵌められている、朱線で錬成陣の刻まれた手袋は外され、所々濁り、黒く乾いた血痕がこびり付いた素手で、銀に鋭く、或いは、鈍く輝く小さなプレートを拾っていた。 足元には、既に事切れた若い軍人の遺体が、その光景に何の感慨を与えるでもなく、横たわっている。 戦火の残骸……。 軍人だから。 戦争だから。 そんな言い訳は、何かを軽減する筈も無く、また免罪符に成ろう筈も無い。 淡々とした現実。 誰かの命を奪い。 そして、奪われ。 兵は、命は、人は、消耗品ではない。 まるで、量産の人形が倒れてゆく様な周りを見ながら、強い吐き気に襲われた。 それでも、目を逸らす事だけはしなかった。 その場に残った自分達ができる事は、そんな事しかないのだから。 自分で決めたこと。 だから、前を向いた。 血の通った、右手を見る度に、布越しに温もりを感じる度、歯を食いしばった。 この混乱に乗じた様に創ったそれは、彼を戦場に送るに十分なものだった。 代価になるなどとは思っていない。等価交換だなどと言うつもりも無い。軍服に袖を通す時、躊躇いが無かった訳ではない。 ―――それでも、止める者達を……上官の半命令じみた示唆ですら振り切って、決意したのは自分の意思。 ――十分すぎるほどに巻き込まれているのだ 否、巻き込んだのは自分かもしれない。 だから、手を、身体を、紅く染める事に後悔はしないと誓った。 今でも、ソノ瞬間に其処に何かの感情が有ったとは思えない。 凍りつき、麻痺してゆく感情。 伝い落ちる命の温みすら、感じることができなくなる その全てが、エドワードにとっては『戦争』だった。 勿論、それはたぶん、目の前の男にとっても同じ事で、この地に召集されれば誰でも否応無しに感じる事、その中で生き残る事だけが目の前に掲げられる現実。 無秩序な世界。 「君は、忘れられると、言うのかい?」 顔を上げたロイは、一言一言確かめる様に、エドワードに届けた。 常には強い焔を燈す瞳は、底が見えないほど深い。 彼の手の中で、チャリと金属の鳴る音がする。 手にした、ドッグタグはほんの数枚。 犠牲者の、何分の一、何百分の一。それも、軍の人間の遺品。敵味方併せれば、膨大な数に上るだろう。 その数を憶えていよう、その名を可能な限り心に刻もう。 ――重く、辛い物でも背負ってゆこう。 人間兵器として投入され、前線で真っ先に倒れるはずの自分たちが残った。 兵器と呼ばれる事に、反論する言葉があろう筈も無い。 ――だから、全てを憶えていよう。 ――せめて、人である為に。 その問いにエドワードは、目を伏せて首を振るだけ。 エドワードの応えを予想していたロイもまた、自嘲気味に笑い、視線を落とした。 七年……短い時間ではない、けれど長かったとは思わない。 むしろ、この期間でココまで来れるとは思っていなかった。 それは確かに、彼に因る所が大きいのだけれど……。 自分の手駒にする為に引入れた軍世界。 しかし、いざ前線へ送るとなると躊躇ったのもまた自分。 けれども、その時。 彼を送り出す時、確信していた事がある。 彼の性格は解っているつもりだ。等価交換を重んじ、代価を支払わずに得るものがあるなどとは、考えもしない。 軍の最重要機密を、国家錬金術師として、ある程度の地位を持っている者にすら、一切漏らされることが無かった研究資料を、偶然にも手にしたエドワード。 それを使うと決意した時から、或いは決めていたのかもしれない……。 いくら覚悟を決めていたとしても、自らの手に血の臭いを感じたことは無かっただろう。 それが、崩れた瞬間。 これからずっと、彼は温かな陽溜りの様な平穏を求め続けていくだろう、けれどもそこに身を置くことは、それ以上の苦痛を伴うことを知ってしまった。 出来ることなら、こんな世界を見せる事無く……と、そう思うのは止めた。 彼らは翻弄されながらも、必死に選び取ってきたのだから。そして得たものは大きい。 勿論、その運命と呼ぶには過酷過ぎる道は、ロイ自身にとっても、掛け替えの無いものを齎した。 過去は換えられない。 もう、後戻りは出来ない。 「アルフォンス君は、なんと?」 「何も、ただ……無事でいてくれって」 今更、多くの言葉が必要である筈も無く、多く語ることが有るわけでもなく、ただ確認の様に淡々と零れてゆく。 選択を迫られているようで、けれど実際一本しか道は見えていない、そんな彼を過去も今も潔いと思う。 ふと、ベッドの上、未だ自由にならない身体に鞭を打って、起き上がった少年の目が、脳裏に浮かんだ。 過去にもあんな目で、訴えられた事があったか……。 どうしようもない事、けれど、そう伝えずには居られない。 『連れていかないで―――』と 「もう、時間になるな」 雲の切れ間から落ちる陽が、最期の灯火のように煌々と紅く射している。 それを、眩しそうに手を翳して見ながらロイが言った言葉は、呟きにしては大きく、けれど語りかけるものにしては脈略が無く、どちらかといえば、自分自身への意思確認、最終通告なのだろう。 今更、尻込みでもしたか?と、問えば、一笑で蹴られてしまう様な躊躇いにもならないそれを、わざわざ確認してやる必要も無く、エドワードは立ち上がるべく、膝を付いた。 その時、何気なく差し出される手。 ―――ああ、こうやってあの時も…… 何時だってこの男から差し出される手は、何かを選び取るとき。 何かを決意しろと…そう云っているとき。 けれど、今回は提示される可能性に縋るのではない、自分の意思の全てで選び取る手。 瞬間、覗き込んだ男の目は、先ほどの躊躇いなど無かったように、常よりも激しく焔の燃えるもの。 けれどまだ、足りない。 ―――パシッ……。 差し出された手、重なる前にエドワードは強く払った。 口元に笑みを宿して、緩慢とも思える動作で立ち上がると、相手を射抜く目で見つめ返す。 右手に強く力を込め、握っていたサーベルを相手に突きつけた。 しなやかな抜き身の刀身が紅い光を弾きながら、冷たい風を裂き、ロイの首筋にあてがわれる。 少し、手がぶれただけで薄い皮膚は容易に裂かれる距離。 避け様と思えば避けられたろう、視線、手の動き、全て見えていた筈だ。 戦場で伸し上がってきた相手に通用する戦術ではない。 それでも、相手は微動だにしない。 「あの太陽がもう一度昇った後、俺はあと何人殺せばいい?」 何の感情も浮かばない目だった。 「一人で、一人だけでいい……いつか、その時に…」 初めから決めていた答えは、酷く硬く響いた。 息を吐き出し伏せた瞳、何よりもこの瞬間が怖かったのだと言えば彼はきっと笑うのだろう。そして、その後目にした光景を、きっと自分は忘れない。 応えに、満足した青年が微笑んでいた。 命の水に近い色をした空に背を向けて、笑っていた。 首筋から、冷たい気配が去ってゆく、次の瞬間見たのは白い軌跡。 制止すらできないうちに、振り下ろされた刃。それは、勿論自分の喉下へではなく、いつもエドワードの背で揺れていた、金糸へ。 腰に届くほどにまでなったそれへ、惜し気もなく刀身を滑らせる。 はらはらと、朱色に染められながら落ちてゆく。 その光景を自分は忘れない。 肩口までに短くなった髪、振り払うように、一度頭を振った後に彼は笑った。 そして、今度こそ差し出した手に、自分の手を重ねてくる。 「ったく、しょうがねーな。何時まで経っても、無能でどうすんだよ」 「部下が皆有能なのでね、問題ないだろう?」 重ねた右手、常ならその手から伝えられる温度は、その時は無く、氷を掴んだ様な錯覚に、思わず顔を顰めてしまう。 フワリと……、その時残像のようにまだ宙を舞っていた金糸が、高く空へ舞い上がった。次いで、二人を襲ったのは熱。 背後で、黒煙が大きく広がった。 背後、自分たちが庇い護っていた場所から。 「あんたには、勿体無いくらい有能な、な。感謝しろよ」 そして、新たに、その言葉と共に足を踏み出す。 ―――何時か、この焦土を自分が創りだす日が来るとしたら、その時に裁かれるのは、神にでも民衆にでもなく、拭え無いほどの罪を背負った、この少年がいい。 そして、その晩 一夜のうちにして、セントラル軍本部は陥落する。 to be continued |
ラスト1話 |