それは一種の重力。

離れることは無い、けれど、これ以上踏み込むように距離を縮めることも決して無いだろう。
あの白い月と、この青い惑星の様に、どれほどの時を掛けようとも交わることの無い関係。

引かれてはいけない。

離れてはいけない。
 
それでも……まるで、契約のように惹きあう。








    ロッシュの限界 U












「――大総統!」
「軍備予算も人員配備も問題無いと思うのだが、まだ何か問題でも?」
「ですから!」

定時に遅れること数秒、大きく開け放たれた会議室の重厚な二枚扉から、青い礼装の軍服を翻して出てきたのは長身の人物。
若すぎるこの国の最高権力者は、漆黒の髪を煩わしそうにかき上げながら、舌打ちでもしそうな不機嫌な目を、何かを探すように広く長い廊下に向けた。

その彼に追い縋るように、何人もの壮年も後半に近い軍人が後に続く。口々に何かを言っているが、大総統の耳に届いているかは判らない。
否、いい加減退役するなり、儚い野望を捨てるなり、身の振り方を覚えてもいいだろうと、目で言ったところで、伝わるはずも無い権力と金の亡者に、貸す耳など持っていない、と言うのが彼の弁である。
 
その光景を、死角にひっそりと身を隠した青年将校が見つめている。
気配を殺して、其処で時間を過ごす事数分。時間までもきっちりと予想の範疇に、繰り広げられる光景。
重い溜息を一つ置き去りに、脇に抱えた少々厚みのあるファイルを、落とさないように注意しながら、手中でカチカチと時を刻む懐中時計をパチンと閉じ、仕舞うと、足を踏み出した。

「お疲れ様です、閣下。申し訳ありませんが、お帰りまでに、こちらの書類にサインをお願いいたします」

未だ群れを成している一行の前に、一種優雅とも思えるような所作で進み出ると、そのまま首を軽く下げ、瞳を伏せる程度に礼をする。何か言いたげな視線が、複数刺さってくるが、気にしてやるほど心も広くなければ、暇でもない。

「急ぎの裁決ですので……申し訳ありません、将軍方。失礼致します」

分かったと、一言だけ残し、急ぐのだと云わんばかりに、既にファイルを手に歩き出した上司の背後に背を向け、身を滑り込ませると、口元に浮かべた涼しげな笑みと、敬礼で外野を制すと、軍服の裾を揺らしながら踵を返した。
首筋の辺りで一つに束ねた、背の半ばにまで届く明るい色の髪が、彼の動きを追って、金の軌跡を緩やかに描く。

肩章に通るラインは四本、星は三つ。
取り残された彼らより、一つから三つ下の階級を示している。
けれど、そこの誰一人彼を咎める事無く、見送った。
完璧な受け応え、機械的ではない優美な敬礼、控えめな微笑。
彼の行動は全て、一応、上官を立てるように慇懃。
しかし、残念なことに、無礼だとは誰も取ってくれなかったようである。

―――エドワード・エルリック大佐。
四年前の一件から、敵も味方も判らない軍内において若き大総統が常に、背後に控えさせる補佐官。
弱冠、十二歳で国家錬金術師の資格を得た少年は、長じて軍上層部の中枢に身を置く事を選んでいた。










「……で、今日はなんて言ってきたんだよ?」

執務室の扉を丁寧に閉めた後、先に口を開いたのはエドワードだった。
自分が同席していない会議で、彼らが食い下がってくるのは大抵自分、『鋼の錬金術師』の処遇に絡んでいる事を予測しているにも拘らず聞く。
襟の前を少し広げ、革張りの椅子に足を組んで煩わしそうに、封筒を開封していた手を止め、ロイは顔を上げた。


広い大総統の執務室、しかしそこは最高権力者の座所、防犯面でも随分考慮されている、全体的に黒を貴重として整えられた、少々冷たいような印象を与える部屋。
黒の大理石だろうか……それにしては丈夫な石の床、中央に大きく彫り込まれているのは、火炎宝珠にサラマンダー。
この男を象徴するような練成陣である。
デスクに着くと背後に回すことになるが、大きな窓が取られている。勿論、防弾の強化ガラスなのだが、この部屋の主のサボリ癖に、何らかの意図するところがあるのか、無いのか…はめ殺し。
当然、防音面でもそれなりの信頼を持てるわけで、エドワードはこの部屋に限って、青い軍服を纏っていても軍人を演じない。


「私の前では、素のままの君が見れるというのは、いいね」

「で、何言われた?」

一昔前なら、怒号一発、文字通り鉄拳が飛んでくるか、突っ掛かってくる、そんな反応があったというのに、今となっては一瞥のもと、なんとも言えない冷たい眼で切り捨てる。

東部へ遣っている腹心に、多少寄るところも有るかもしれないが、そこは深く追求しないことにする。

それでも、ロイは思うー――。
それまでも軍属であったとはいえ、十代後半で、しかも、階級も高官に軍人とし、権力と金に目の眩んだ、腹の丸い狸どもの巣窟に放り込んだのがまずかったのか、初々しさが綺麗に薄れてきた。

(……どうしてくれよう。昔は、あんなに可愛かったのに)

実際は、権力も金も手に入れた、後は腹を丸くするだけの、一番身近な狸が最大要因であるのだが、そこについては思いつきもしないらしい。

鋭い視線を避けるように、三つほどに分けてあった書類の山を目の前に積み上げ、無駄と知りながらもバリケードを作り、つらつらと方向の違うことを考えてみるが、尋問が緩むはずも無い。
漸く顔を隠す程の高さになった頃、崩されてゆく山を見ながら、仕方がないと溜息を一つ吐き、組んだ手の上に顎を乗せて話し出す。

「君の階級をね、一つ上げろと言って来た」


根負けして話してしまったという事よりも、むしろ話の内容自体に面白みが無いような、そんな口調でロイはさらりと告げた。

エドワードは、その予想に反した内容に瞳を大きく見開く。
そんな子供っぽさの残る表情を、久々に見れた事に気をよくしたロイは、口の端を少し上げ笑って見せた。

「それは……また、光栄だな」

降格要請はあろうとも、まさか昇進を望む声が出るとは、本当に以外だった。

今現在エドワードは、大総統の補佐官という役職に、階級としては大佐の位にいる。
勿論、早すぎる昇進に異を唱える者は多かった。
しかし、それも思惑の範疇にある事で、この若き大総統も、エドワード自身も、これ以上『鋼の錬金術師』を上に行かせる意思が無い。

十八の時、現大総統の着任と共に中佐に昇進。その後、諸々の後始末を功績に、今の位に就いたのが一年前の二十一になってすぐ。
早さから見ても、年齢的なものを見ても、異例。
早すぎる昇進は、他の将官、佐官から疎まれる。それだけで、今後の昇進の妨げになるだろう。

「それで、栄転に託けて君を、私から離したいらしいね」

将官にまでなれば、大総統に補佐官として付く事は立場上、他が許さないだろう。
何処かの司令部の最高責任者か、国家錬金術師として何かの研究機関を任されるか、幾つかの可能性は考えられるが、何れにせよ、自由に立ち回れる立場でなくなるのは必死。

それは、どちらにとっても歓迎すべき状況でない。

「使える懐刀をちらつかせていては、暗殺もおちおち仕掛けられんのだろうし?」

ごく穏やかに、紡がれてゆく口調。

―――護ってくれるのだろう?

悪戯っぽく眼で問うて来るが、その奥に燈る焔は静か、それでいて、苛烈。それを受け止める眼もまた同じもの。
 
暫く、互いのその焔を確認するかの様な時間が流れた。

先に逸らしたのは、金に相反する様な漆黒の瞳。
瞳を伏せ、その何とも形容し難い空気を消すと、次いで金の瞳もまた穏やかに凪いだ色を呼び戻した。

「とりあえず、それは適当に流すとして。今は、大人しくコレにサインしろ。終わるまで帰れると思うなよ」

エドワードが目線を投じた先、ロイの背後には既に茜色に染まった空が広がっていた。
無駄な時間を過ごした。等と、無造作に積まれた書類の束から、裁決済みの物を掘り返すエドワード。
紙を繰って行く、白い手袋の外された手はどちらも細くしなやかな、温かさを宿すそれ。
彼の二つ名である『鋼』の面影を残すものは、今彼の身体に残されていない。

「じゃあ、暫くしたら取りに来るからな。サボるなよ」
「ああ……エド」

分厚いファイルに書類を納め、それらを回す部署を確認しながら、背に流した髪を躍らせて、退出しようとしていた彼を、ロイは呼び止める。
普段、職場では呼ばれる事の無い名を呼ばれ、振り返った。

『鋼の』と呼ばれなくなってどれほど経つだろう?

「いや、なんでもない」

―――髪が……随分、伸びたと思っただけだ。

誤魔化す様に言うと、彼は口の端を少し上げて笑んだ。

格子状の窓枠から差し込む、紅い夕陽。
彼の金の髪を染め上げる光が、思い出させる。

―――守り、護られる関係。

そんな甘いものでは、無いのだ。


自分たちのそれは………。





to be continued